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発表の概要


演奏家の手の障害―ピアニスト、弦楽器奏者を中心に

 酒井直隆 (横浜市立大学医学部整形外科客員教授)

 

 演奏家の手の障害では痛みの背景にリウマチなどの基礎疾患が隠れている場合があるため、まず最初に病院で正確な診断をつけることが必要である。基礎疾患が発見されればまずその治療を行い、オーバーユース障害と診断されたら上述の「練習しながら治療する」方針で治療に臨む。

 楽器には操作特性があり、楽器の種類によって演奏するための身体の姿勢や運動が大きく異なる。ピアノは椅子に座って楽器に向かい、左右の上肢はほぼ同じ打鍵動作を繰り返す。一方弦楽器は左右の上肢の運動が異なり、右利きの場合、左手指で弦を押さえ、右手に持った弓や指先で演奏する。

 ピアニストの障害で代名詞のように言われている腱鞘炎は、実は全体の30%程度でしかなく、他の障害を腱鞘炎と誤解しているケースが多い。腱鞘炎よりも多いのが肘の筋肉の付け根の痛み、いわゆる付着部炎である。このほか、小さな手を開いて打鍵する際に起こる指関節の捻挫、末梢神経が圧迫されて起こる神経炎、手指が勝手に動き出すフォーカル・ジストニアなどがある。

 弦楽器奏者の手の障害も、ピアニスト同様、腱鞘炎や付着部炎、神経障害が見られる。ただ、楽器の種類によって演奏姿勢が大きく異なってくる。ヴァイオリンは肩と顎で楽器の端を支えながら左手で柄を把持しつつ指で弦を押さえるため、左肩、左肘、顎関節に負担がかかる。一方チェロは楽器を床に置いて演奏するので支える負担から開放されるが、左腕を挙げて弦を押さえなければならず、肩に負担がかかる。コントラバスは、チェロ同様左肩に負担がかかるだけでなく、演奏姿勢が猫背になることが多く、また楽器が重いために運搬の際腰痛を起こすことが多い。

 以上のように鍵盤楽器、弦楽器の手の障害は腱鞘炎、付着部炎、神経障害が代表的だが、楽器の操作特性に応じた障害もあり、治療に際しては毎日の練習を極力欠かさぬために「練習しながら治療する」ことが重要である。さらにオーバーユース障害の大部分は、奏法の改善やストレッチ体操で予防することが可能であり、今後の演奏家医学は楽器の改変を含む予防法に向かうべきである。

演奏家の手の障害:管楽器を中心にして

根本孝一(防衛医科大学校整形外科教授) 有野浩司(同 講師)

 

  音楽家に発生する医学的問題は、1980年代から欧米において注目を集めて来たが、日本ではまだ大きな関心が持たれていない。しかし、今日の音楽活動の隆盛に伴って障害の増加が危惧されるので、医師と音楽家の双方の正しい理解が求められる。今回、職業吹奏楽団員の健康調査の結果と代表的疾患について解説する。

 健康調査は自衛隊音楽隊隊員157人(18歳から59歳、平均36歳、男性120人、女性37人)を対象とした。楽器の内訳は、管楽器130(木管75、金管55)、打楽器15、ピアノ3、弦楽器2などであった。演奏歴は6年から41年、平均21年であった。アンケート調査の結果有症状者は81名(52%)であり、男性の48%、女性の65%に症状が見られた。年齢、演奏歴には一定の傾向は見られなかった。症状は、疼痛56%、しびれ感10%、こり8%、巧緻運動障害4%、心理的問題4%などであった。症状の部位は、上肢59%、体幹22%、下肢4%、顎関節6%、口唇・歯4%などであった。上肢の内訳は、肩2%、肘9%、前腕7%、手関節32%、手指47%であった。手指の中では母指に多かった。楽器別では、クラリネット、フルート、オーボエ、ピアノの奏者に多い傾向があった。クラリネットやオーボエ奏者の右母指痛、ホルン奏者の右手関節痛など楽器特有の症状も見られた。有症状者81名中、医療機関受診者は27名に過ぎなかった。診察による診断は、肩関節周囲炎、肘部管症候群、上腕骨外上顆炎、腱鞘炎、母指CM関節症、弾発指、focal dystonia、指hypermobilityなどであった。

 音楽家に発生する医学的問題は、楽器演奏による障害、音楽家に偶然発生した傷害と疾患、心理的原因による障害の3つに大別できる。楽器演奏には細やかな手指の動きが要求され、治療には楽器の特性と演奏法に関する知識が要求される。今後、医師、音楽家、音楽指導者に対して音楽家医学(演奏家医学)の啓蒙が必要である。また、職業関連疾患として対処するために楽団管理者にも啓蒙が必要である。

 要約すると、何らかの症状を有する者は全体の約半数であり、症状は疼痛を主とし、部位は手関節と手指に多かった


演奏家と歯―管楽器と歯の深い関係を探る

根本俊男(根本歯科医院院長)

 

 皆さんはトランペットという楽器本体や吹いている姿を見たことがあると思います。何気なく見ていれば気が付きませんが、注意深く見ると、楽器が妙に下向きになっていたり、横向きになっていたり、また自然に真直ぐに見えたりすることに気付かれると思います。この吹奏時の角度の変化を、前歯の歯並び、噛み合わせ、が決めてしまうことをご存知でしょうか?

 多くの奏者自身もこの問題に気付いていないようです。さらに多少の歯並びの不揃いが奏者自身の音色を作り出していることも事実です。この歯並びの不揃いも度を越せば吹奏に支障をきたします。また長年楽器を吹いていると歯列に変化が現れ、音色の悪化、高音域の吹奏不能、長時間の吹奏不能といった事態に至ります。この「バテ」といわれる耐久力不足は、若年期ならば体力筋力によって補えますが、壮年期を過ぎると歯周病などの併発により、症状が一層顕著に現れます。これが職業音楽家であれば事態は深刻です。最近になって彼らの多くはこの原因が歯や口腔の変化であることに気付き始め、歯科医を訪ねるようになりました。ところが今度は対処する歯科医の多くがこの問題に対し未経験のため、ただ奏者の訴えだけを聞き暗中模索で治療した結果、全く吹奏不能に陥った事例も少なくないのです。

 これらの観点から管楽器と歯の深い関係を探り、歯科医の立場からこれにどのように対処すれば良いかを解説します。

発声のしくみと神経障害

小林武夫 (帝京大学医学部耳鼻咽喉科客員教授)

 

Ⅰ.発声のしくみ

1.呼気流

 発声のためのエネルギー源である。通常は胸郭の収縮により、気管を通って下方から喉頭に向かう呼気流が生ずる。ある程度の圧を保っていないと発声が成立しない。

2.喉頭・声帯

 喉頭で呼気エネルギーが音声エネルギーに変換される。両声帯が内転(声門閉鎖)している時、呼気流による声門下圧が高まると声帯の粘膜が押し上げられ、声門は開くが、声門下圧が下がると声門は再び閉じる。この周期が繰り返されて発声が成立する。声帯の粘膜は適度に柔らかく、粘膜波動を起こすことが必要である。

3.共鳴腔

 声帯から口腔までの管腔(声道)であるが、共鳴するという意味では声門下の空間も重要である。

Ⅱ.神経障害による音声障害と呼吸障害

1.喉頭の筋肉を支配する神経の障害

 a. 反回神経:嗄声、失語、呼吸困難

 b. 上喉頭神経:高音が出にくい

2.共鳴腔の形態を変える神経の障害

3.呼気流を作る筋の障害

4.中枢神経の障害

Ⅲ.基礎的事項

1.喉頭の原始的機能は何か

  気道の防御、胸郭の形態の保持

2.喉頭内筋とは

  声帯を内転する筋(内筋、側筋、横筋)

  声帯を外転する筋(後筋)

  声帯を緊張させる筋(前筋、内筋)

3.喉頭内筋を支配する神経

  反回神経、上喉頭神経(前筋のみ)


声楽家の声の障害―耳鼻咽喉科・音声言語学の立場から

米山文明 (米山耳鼻咽喉科医院院長)

 

 今回の第1回シンポジウムに参加するにあたり、私の立場、音声言語医学の臨床面から意見を述べる。

 日本の芸能団体のほとんどすべてを統括している「芸団協」で、私は3回ほど講演を依頼された。詳細は割愛するが常に私が主張してきたことは、芸能演奏家の心と体のケアを受け持つ組織的な医療体制が日本にも欲しいという点であった。1例として私の専門分野では、COMET(Collegium Medicorum Theatri)というのがある。1970年に創立されて毎年1回情報交換と懇親の目的で、世界のどこかで集まる(学会組織とは異なり、極めて少人数)。世界の主要各国で歌手や俳優などの声や言葉の障害者を扱っている代表者の会合である。中国からの唯一のメンバーである顧立徳氏(Dr. KooLei-Tehi)は上海の「芸術家の病院」(The Artist’s Hospital of Shanghai)の主任で、現在はスウェーデンに住んでいる。私はこのような組織が日本国内で作れないかと20数年前から考え、学会誌などでも発言してきた。しかし日本の医学会の性格上からか同調はなかなか得られないし、組織もまだできていない。

 他方で日本の臨床面での実情は、外国からの来日演奏家の増加や、日本の演奏家も地方公演が増え、適当な医療機関を選択するのに困っている。近年地方文化活動も盛んになり各地に劇場が建設されているが、演奏家はそれに対応できるほど育っていないので、中央からの出張公演が多くなる。旅先での肉体的、精神的トラブルへの医療対策面は手不足になりがちになる。特に芸能関係の実技に精通した専門臨床医の数はかなり制限される。私自身も各地域での専門医紹介には苦心することが多い。具体例は当日述べるが、対策については「芸団協」のJournal vol.15(p.9)と「芸能と身体」(p.23)に述べたのでご参照いただきたい。この点で体育関係者のスポーツ医学確立に学び、「芸能医学」独立が私の念願であり、今回の試みがその端緒になることを切望する。


演奏家の健康と生活保障

関 伊佐央 (日本芸能実演家団体協議会(芸団協)芸能文化情報センター)

 

 不注意によるケガ、オーバーユースによる故障-治療費は自己負担、仕事をキャンセルしても休業補償はない。次の仕事が来る保証もない。だから無理をしてしまう。痛めてこそ一人前、ケガや故障も実力、気合い、根性、宿命・・・ これらの(良く聞かれる)フレーズで済ませてはいけない。

 スポーツの世界を見ると、教育機関、医科学領域、競技団体、国などのサポートシステムが構築されている。アメリカなどにおいて、病院や大学、財団や研究機関などが、医師と芸能実演家とのネットワークを構築し、各種研究、クリニックの開催、情報提供など、芸能実演家の健康に関する多様なサポートが行なわれているように、日本においても同様のサポートシステムを構築していくことが望まれる。

 生活保障の観点からは、現在、オーケストラや一部の劇団を除き、ほとんどの芸能実演家は国の制度である労働者災害補償保険制度(労災保険)の適用を受けていない。したがって、仕事中の怪我やなんらかの障害を負った場合は自前で治療などの対応をしなければならないことが多い。

 ドイツでは、「芸術家社会保険法」によって芸術家を年金保険と強制疾病保険に加入させ、他の被雇用労働者と同様に保険料の半額を作品や実演の買い手である企業等に芸術家社会税として負担させているし、フランスでは「労働法典」によって芸能実演家は労働者であると推定し、一般の労働者と同様の社会補償制度を適用している。

 芸団協ではこれらを踏まえ、ケガや故障に関するサポートの一環として、まずは自身の身体について知り、日常のケアに関する情報を提供していくセミナーをスタートさせた。今後も継続的に実施していく予定である。次に、仕事上の災害を補償する観点からは、国や各政党に対して、労災補償制度の芸能実演家への適用を働きかけており、党レベルにおける検討が具体的にスタートするなどの動きも出てきている。

 200112月に制定された「文化芸術振興基本法」は、文化芸術が心豊かな活力ある社会の形成にとって極めて重要であり、文化芸術活動を行う者の創造性が充分に尊重され、その地位の向上が図られ、能力が充分に発揮されるよう考慮することが謳われている。芸能実演家の日常的な活動の中では、この法律との関係を意識、あるいは実感する機会はあまり無いかも知れないが、この基本法の制定が芸能実演家の健康と生活保障に関わる国レベルでの動きに大きく影響している。芸団協としても、基本法の理念、趣旨に応え、文化芸術の担い手である芸能実演家の活動をサポートすべく、今後とも諸処の課題に取り組んでいく。